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信長の交流

ほうほう、こんなことだったですね。
たいぶ昔に習ったことだから忘れてしまっていました。

永禄12年(1569年)、信長は足利義昭の将軍権力を制限するため、「殿中御掟」9か条の掟書、のちには追加7か条を発令し、これを義昭に認めさせた。だが、これにより義昭と信長の対立は決定的なものになっていく。

元亀元年(1570年)4月、信長は度重なる上洛命令を無視する越前の朝倉義景を討伐するため、浅井との盟約を反故にし、盟友の徳川家康軍と共に越前へ進軍を開始する。織田・徳川連合軍は朝倉方の諸城を次々と攻略していくが、金ヶ崎へ進軍したところで、北近江の盟友であった浅井長政に、織田・徳川連合軍は背後を突かれる形となった。突然の窮地に追い込まれた信長だが、殿軍を務めた池田勝正の統率力や明智光秀・木下秀吉(藤吉郎より改め)・徳川家康らの働き(金ヶ崎の退き口)もあり、なんとか京に逃れた。信長が京に帰還したとき、従う者はわずか10名ほどであったと言われている。

これを契機に将軍・足利義昭と信長の対立は先鋭化し、義昭は打倒信長に向けて御内書を諸国に発し、朝倉義景、浅井長政、武田信玄、毛利輝元、三好三人衆、さらに比叡山延暦寺・石山本願寺などの寺社勢力に呼びかけて「信長包囲網」を結成した。

これに対して信長は浅井長政を討つべく、元亀元年(1570年)6月、近江国姉川河原で徳川家康軍と共に浅井・朝倉連合軍と戦う(姉川の戦い)。浅井方の先鋒・磯野員昌に15段の備えの内13段まで破られるなど苦戦するが、遂に浅井・朝倉連合軍を破った。

元亀元年(1570年)8月、信長は摂津で挙兵した三好三人衆を討つべく出陣するが、石山本願寺の援軍などもあって苦戦する。しかも信長本隊が摂津に対陣している間に軍勢を立て直した浅井長政・朝倉義景・延暦寺などの連合軍3万が、近江坂本に侵攻する。これに対して織田軍も抵抗したが、衆寡敵せず、信長重臣の名将といわれた森可成と信長実弟の織田信治は戦死してしまった。これに対して信長は、9月23日未明に急ぎ本隊を摂津から近江に戻すという神速とも言えるスピードで帰還する。慌てた浅井長政、朝倉義景らは比叡山に立て籠もって抵抗する。これに対して信長は近江国志賀において浅井・朝倉連合軍と対峙した(志賀の陣)。しかし、その間に本願寺の法主・顕如の命を受けた伊勢長島一向一揆衆が叛旗を翻して、信長は実弟の織田信興、重臣の坂井政尚らを失い、進退に窮する。このため信長は正親町天皇に奏聞して勅命を仰ぎ、12月13日に勅命によって浅井・朝倉軍と和睦することに成功した。このとき、大久保忠教の記した「三河物語」によれば、信長は義景に対して、「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望みなし」とまで言ったという。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年12月20日 19:17に投稿されたエントリーのページです。

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